あくまでも。。。
映画「国宝」を見てきました。昨年、原作を読んでから映画の公開をずっと楽しみにしていました。感想を一言で言うと「素晴らしい映画」でした。
”素晴らしい”は「国宝」という小説を原作とした映画として素晴らしいという感想です。
松竹も全面協力していますし、この映画をきっかけに、今まで歌舞伎を観たことがなかった人たちが興味を持ち、劇場に足を運ぶきっけになってくれたら、という思いは歌舞伎界全体が考えていることでしょう。
映画化で残念だったこと
原作のラストでは人間国宝になった花井半次郎が、女形の最高峰の役である「阿古屋」を歌舞伎座で上演します。演じ終わった半次郎が「ゆっくりと微笑みを浮かべ」唖然とする観客の間を歩き、歌舞伎座ロビーから外に出て行くのです。
突然の花魁の出現に何事かと騒然とする通行人。興味半分にたかれるフラッシュ。半次郎は銀座の渋滞の車列を縫うように打掛を引き、髪飾りを揺らして進みます。信号が変わった交差点によろめきながら飛び出す半次郎、無数のクラクションが鳴らされ。。。。
このシーンを映像でも見たかったのですが。難しかったのでしょうか?不要だったのでしょうか?私にとっては作品の最も重要な部分だと思って楽しみにしていたのですが。。。
主役2人について
吉沢亮、横浜流星共に、「確かな演技力」「国宝級イケメン」ということでキャスティングされたことは誰もが納得するところでしょう。
私の感想は「女形」の顔だったのだろうか?ということでした。歌舞伎の女形の役者さんたちも整った顔の方はもちろん多いのです。でも、整っているのと、女形の顔が合うというのは別物だと思います。
私の大好きな仁左衛門様は見惚れるほどのお顔立ちですが、まれに女形をするとやはり違和感が。團十郎も、染五郎も非常に整った容姿ですが、女形向きではありませんね。主役の二人も、女形として修業を積んできたという物語ですが、顔立ちからしたら立役の方が合っていたのではないかと感じてしまいました。女形として映える容姿の方は他にもいたのでは?と考えています。大作ですからそれなりの役者さんを並べたということでしょう。
もっとも無かったもの
この作品に出るにあたり、吉沢亮、横浜流星両役者さんは、血の滲むような努力をしたことでしょう。それでも、私にとって「あれがない」と感じたものがあります。
それは「佇まい」です。以前、スーツ姿の男性の後ろ姿を見て、「この人は何者?」と思った人がいました。お顔が見えたら河合雪之丞さんでした。プライベートでの姿、しかもスーツ姿でしたが、私にとっては明らかに「佇まいの違う人」だったのです。
映画の役者さんにでそこまで求めるのは無理があるでしょう。それでも、見終わった時に、「あれがなかった」と思ってしまいました。長年女形として精進してきた人独特の「オーラ」「姿勢」「佇まい」まで求めるのは無理だったということでしょうか?それとも私の勝手な見方だったのでしょうか?
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