都会のオアシス・歴史的事件の舞台 乃木神社

 歴史の舞台・乃木神社へ

乃木神社
国立新美術館に行くため、初めての乃木坂駅で降りました。
この辺りは今まであまり行く機会がなかったので、ついでに乃木神社にも行ってみました。

当時の日本、その後さらに戦争に向かう日本の教育にも少なからず影響を与えたであろう、歴史の舞台です。

乃木希典とは?

1849年、現在の六本木にあった長府藩上屋敷にて誕生。幼名は無人(なきと)。
山口県の萩にて学問を修めたのち、山縣有朋の推挙により軍で出世し、西南戦争では西郷軍と戦っている。

結婚後、ドイツ留学の機会を得、現地では森林太郎(鴎外)との交流が始まった。
日清戦争従軍、台湾総督の任に次いで、日露戦争の旅順攻撃の指揮を執り勝利するが、この戦争中、二人の息子が相次いで戦死。

敗戦したロシア側に礼を尽くして対応したことが賞賛され、国際的な英雄となって帰国するも、多くの犠牲を出した責任を取ることを明治天皇に奏上。「どうしても死ぬというのであれば、朕が世を去った後にせよ」と説得される。

乃木邸
明治40年からは設立された学習院の院長に任命され、後の昭和天皇の養育にも関わる。後に昭和天皇は人格形成に最も影響のあった人物として乃木の名を挙げています。

明治天皇の葬式にあたる「大喪の礼」が行われた日の夜、乃木希典と夫人の静子が自宅にて自刃。
5日後の葬儀には、自宅から青山斎場までの沿道は、乃木夫妻の死を悼む20万の国民で埋め尽くされました。


乃木坂

江戸時代には「幽霊坂」、また「行合坂」「膝折坂」とも呼ばれていました。当時は武家屋敷が並んでいましたが、明治以降は軍関係の施設が点在しました。このため、軍関係者も多く居住し、その中に乃木の住居もありました。
乃木の自刃後、赤坂区議会が改名を決議し、「乃木坂」となりました。

乃木神社
乃木神社

乃木の殉死後、邸内に夫妻の霊を祀っていました。夫妻の精神を永遠に伝えようという活動が続けられた結果、神社創設の許可が下り、大正12年に鎮座祭が斎行されました。

元の社殿は昭和20年の空襲で焼かれましたが、昭和37年に復興されたものです。

神社は乃木邸と隣り合った敷地にあり、小さいですが宝物殿は無料開放されています。乃木の遺品や写真が展示されています。

乃木邸は建物外側に通路が作られ、外から部屋の中を見学できるようになっています。こちらも無料です。夫妻が自刃した部屋も見えるようになっています。

アクセス
地下鉄・千代田線「乃木坂駅」1番出口を出てすぐ。
東京ミッドタウンまで徒歩約5分。六本木ヒルズまで徒歩約15分。
ホント、都会のど真ん中ですね。
 
💬
添乗の仕事で各地の神社に行きます。地方に行くと、戦争中のその土地出身の英雄を「軍神〇〇」などと呼んで祀っている神社があります。
戦争で勇敢に指揮をとり、功を挙げたことはわかるのですが、その下に何千、何万という犠牲があったことを思うと、私は心から手を合わせることができません。

乃木希典を「国民の鑑」として、ましてや静子夫人もこのように祀られることが本意であったとは思えず、複雑な思いがします。
ご夫妻の行為がどんなに純粋なものであっても、戦争への足音が常に聞こえていた時代です。「お国のため」「忠誠」という言葉を利用したい大きな力によって祀られてしまったご夫妻が、静かに休めていることを祈ります。

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